2004年12月1日水曜日

闇から光に


12月の礼拝メッセージより

メッセンジャー:久松 政一 牧師

       (クライストチャーチ主任長老)


ヨハネによる福音書1章1~5節
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。 全てのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、 闇はこれに勝たなかった。」 

 この言葉とは、神様の言葉です。そしてこの言葉には命があった。
この命とはギリシャ語で、 「ゾーエ」という言葉で、死なない命、永遠の命という意味です。私達の命ではありません。 神の命という意味です。

そう、言葉は神様の命だった。そしてこの命は光であったと書かれています様に 神様は光りなるお方です。明確にこのお言葉は、神様が言葉であった。その言葉に命があった。 
ですからイエス様が、「生きよ!」と言われたら、死人がよみがえった。イエス様の言葉には命があるのです。 聖書の言葉には命があるわけです。そしてその命は人のための光だった。
ですからこの光が 神様であるということを、私達はこれを通して知ることができます。
 そして9節~10節を見てみましょう。 

 ヨハネによる福音書1章9~10節
「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。 そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」 

 この、“世”というところは、“この世”という意味です。彼というのが光であるイエス様です。 光は暗やみを照らし出します。イエスキリストは光として世に来た。そして、世は光によって 出来たのであるけれども、世は光を知らずにいた。本当に真っ暗やみだったからです。
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2004年11月15日月曜日

神の国は幼子の世界

11月の礼拝メッセ-ジより

メッセンジャー:久松 ひろ子 教師








<人間性回復の第一歩は、幼な子の心に帰ること> 

 人間関係の回復の前に、あなた自身の人間性の回復、これについてイエス様は非常に 多くのことを教えて下さっていますが、その中でイエス様が、とても大切な事として、 
幼な子の心にならなければ神の国に入ることは出来ない。 と言ってらっしゃるのですね。

神の国とはイエス様がおられるこの教会、ここは幼な子の世界であると、 おっしゃっています。
聖書の中で言う幼な子の良い点、美点を、今日は語りたいと思います。 幼な子の美しい点、そこに注目するようにイエス様がおっしゃったのですね。
 
マタイによる福音書18章1~4節
 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、「よく聞きなさい。 心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。

この幼な子のようにあなたたちもならなければ、天国に入ることができないと、イエス様はおっしゃいました。

ルカによる福音書18章15~17節
 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、 弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめた。するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、 「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。 神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を 受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。

私達大人にとっては、理解しがたく、大人になるとかしこまってしまいます。
幼な子の持っている美点、 性質、特質は何だろうか?神の国は幼な子のように喜びにあふれて賛美し、礼拝する。このような幼な子に 対して、私達はもっともっと目を開きたいと思います。
そして今日、皆さんが幼な子の特徴を聞くことに よって、あなた自身を振り返って、ああ私はずいぶん幼な子の心から遠ざかっている、そのことを知り、 幼な子の心に近付きたいと思っていただきたいです。それはイエス様に近付くことであります。

 
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◎幼な子の美点 (1)理屈を超える知恵 

Ⅰコリント1章25節
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」 

と、あります。幼な子は、一見して愚かに見えますよね。幼な子は、弱い者の様に見えますね。 でもそうではないことを、この御言葉が表わしております。
幼な子は、自然の内に神様の知恵が そのまま生かされています。
神の素晴らしさをそのまま表わしていることが多く見られます。 大人の私達が、ハッとさせられることがあります。ああ、そういうことだったのか。それの方が、 ずっと素晴らしいことなのに。ということに気付くわけですね。
子供の考えは、私たち大人の発想を はるかに超えている所があります。子供にしか出来ない発想、大人は皆、理屈の世界に閉じ込められています。 

2004年10月1日金曜日

キリストにお会いしてから(まばたきの詩人、水野源三さんの詩より)


10月の礼拝メッセージ:久松 政一 牧師

         (クライストチャーチ主任長老)




 ヨハネによる福音書3章16節 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、 永遠の命を得るためである。」 

これは神様からの私達に対する最高のメッセージです。
なんと神様は、素晴らしい御言葉を語って下さったのでしょうか。 
本当に主に感謝をしたいと思いますね。私達は今日この御言葉を通して、本当に神様の御愛を知りたいと思います。 

 まばたきの詩人と言われた水野源三さんのことを、皆さんご存知でしょうか?
彼は、昭和21年(1946年)、 小学校四年生の夏、赤痢のため高熱が続き、脳が冒され、脳性小児麻痺となりました。
その結果、手足が自由に動かなくなり、 ものも言えなくなってしまい、見ることと、聞くこと意外は何も出来なくなってしまいました。
この5年後、キリストを信じ、 聖書通信講座も受けられました。
彼の意思表示は「あいうえお」の五十音図を壁に掛け、お母さんがその字を順次、指差してゆき、 自分の望む字まで来た時、目で合図するという方法でした。
一字一字を拾ってゆくという方法ゆえ、一つの詩を完成するのに どんなに忍耐と時間がかかったことでしょう。
 それでは、彼の詩を通して、イエス様の素晴らしさを、味わってみて下さい。

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① 救いの御子の降誕を、一度も高らかに、
       クリスマスを喜び、賛美歌を歌ったことがない。
一度も声を出して、クリスマスを 祝うあいさつをしたことがない。
一度もカードに、メリークリスマスと書いたことがない。

だけど、だけど、雪と風が たたく部屋で、心の中で歌い、
   自分自身に挨拶をし、
     まぶたの裏に書き、救いの御子の誕生を、御神に感謝し、喜び祝う。 


② あんなにも主イエスが、あんなにも主イエスが、
   あんなにも、私達の罪のために、涙を流して悲しんでおられるのに、
       罪を 悲しまなくてもよいだろうか。
         罪を悲しまなくても、よいだろうか。

  主イエスがあんなにも、主イエスがあんなにも、
     私達を 愛するために、血潮を流して苦しんでおられるのに、
        悔い改めなくてもよいだろうか。
          悔い改めなくてもよいだろうか。 

  主イエスがあんなにも、主イエスがあんなにも、
    私たちを救うために、昨日も今日も、招いておられるのに、
      みもとへ行かなくても よいだろうか。
         みもとへ行かなくてもよいだろうか。 



2004年9月1日水曜日

恵みという言葉の本当の意味


9月の礼拝メッセージ

メッセンジャー:デイビー・カップ師

(アメリカ・ロングビーチ:シティ・アット・ザ・クロス主任牧師)


私達の生活において、一番大切なものは恵みです。恵みがどんなものかはっきりわからなければ問題が来ます。ですから、 恵みがどんなものかはっきりわかる様に、今日お話します。

 ①私達は恵みによって救われました。

エペソ人への手紙2章8節
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、 あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」
 
   
 ②私達は今、この恵みの真中で立っています。

ローマ人への手紙5章1~2節
「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの 主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰に よって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。」


 ③私達は恵みによって成長します。

ペテロの第二の手紙3章18節
「そして、わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、 ますます豊かになりなさい。栄光が、今も、また永遠の日に至るまでも、主にあるように、アァメン。」


ますます豊かになるとは、ギリシャ語で成長することです。
 ①~③まで全ては恵みによります。恵みの本当の意味は何ですか?英語ではグレース、ギリシャ語ではカリース。 多くの人の解釈は、恵みは罪のゆるしです。でもこれは、あぶない意味です。恵みが罪をゆるすものなら、 たくさん罪を犯して、たくさん恵みをもらいます。これは間違っています。恵みという言葉の本当の意味は、 神からの能力、賜物です。

 1)神から召された通りのあなたになることの出来る能力。
 2)神が召された通りにあなたがすることが出来る能力。

素晴らしい意味ですね。恵みは罪をゆるすものじゃない、恵みは罪を犯さないものです。恵みがあったら、何でも出来ます。 恵みは神様があなたに「それをしなさい。」と言ったら、「はい出来ます。」言葉だけじゃない、本当の能力です。 神様が、「あなたは聖徒です。」と言ったら、恵みによって、あなたは聖徒です。私達は罪人じゃないですよ!

 恵みは罪をゆるすものじゃない、なぜならイエス様の生活を見たらはっきりわかります。 


2004年8月1日日曜日

イエス・キリストの存在感にあふれる教会/イエス様の素晴らしい世界

8月主日礼拝より
メッセンジャー:スティーブンケーラー師:
千葉県・ホープチャーチ主任牧師



イエス様がこの地上に来られたのは、私達がこの目で見て、神様がどういうお方であるかを見るためです。
イエス様の中に、真の神様の正確な姿を見ます。神様の心を見ます。
そして、その世界は今日も変わらないです。
 リバイバルが来る時に何が起こりますか?イエス様の世界が現われるのですよ。
イエス様が福音書でなさった事を、また教会を通して、して下さるのです。あなたを今日励ましたいです。

ルカによる福音書5章1~11節
 何という素晴らしい出来事でしょう。
この話を通して、今も有効である神様の世界、イエス様の世界を学ぶことができます。
 教会を生かすのは、イエス様の存在感ですよ。
イエス様がどういうお方であるかを私達は、はっきり知らなければならないのです。

 主は、常に自ら働いておられます。
日本にいる全ての人に、神様は働きかけています。
神様は、全ての人の中に働いておられるのです。

 イエス様がペテロの所に来られた様に、主は私達の所にも来て下さいます。
私達の舟に、乗って下さるのですよ。私達の人生にかかわる神様です。

宗教というのは、何とかして人間が神様に近付こうとするのです。
近付く事ができない、届く事ができない。
でも聖書の世界は、イエス様の世界は、神様がおりて来て、私達の舟に乗って下さるのです。
私達の教会にも来て下さると言って
いいでしょう。
私達の家庭にも来て下さるのです。私達の人生の中に入って下さるのです。

2004年7月1日木曜日

立場を超えた愛







7月主日礼拝より

メッセンジャー:久松政一牧師
(クライストチャーチ主任長老)




ピリピ人への手紙1章1節 
「キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。」
 ペテロの第2の手紙1章1節
「イエス・キリストの僕また使徒であるシメオン・ペテロから、わたしたちの神と救主イエス・キリストとの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を授かった人々へ。」


 彼らは自分達のことをキリスト・イエスの僕ですと言っています。キリストを伝える指導者達は自分達のことをキリストの僕と呼んでいました。僕とは奴隷のことでした。
彼らはキリストのためなら奴隷となったのです。彼らは自分の考えがなかったのでしょうか。彼らはクリスチャン達からは、非常に尊敬された人物でした。彼らは使徒でした。けれども彼らはキリストの僕と言っています。

私達はここに注目したいのです。なぜ彼らは僕とまで言い切るのか。それには次の御言葉を見たいと思います。
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 ピリピ人への手紙2章6~8節 
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」


 アーメン!このことのゆえに、パウロ先生もペテロ先生も自分のことをキリストの僕だというこの肩書きを彼らは用いたのです。
私の信じているイエス・キリスト様が、私のためにどんなに愛して下さったか、という事を知ったら、彼らは、自分はえらそうに出来ない、又、どんなに使徒という素晴らしい立場を得たとしても、それは神が与えて下さった立場ゆえであって、自分の実力ではない、この様に受け止めていた。これはすべて、イエス・キリストの私を愛して下さった愛によって、私は今の立場を得ているのだということを、彼らは深く知っていたのです。私達もこのことを知りたいのですね。


2004年6月1日火曜日

真理の言葉



2004年6月主日礼拝より

メッセンジャー:久松 政一牧師
(クライストチャーチ主任長老)





ヨハネによる福音書8章21節~30節、イエス様が言われました 
 「あなた方は下から出たこの世の者であるが、私は上から来た者である。」
そしてもし私達が、イエス様を信じなかったら、罪の内に死ぬ事になる。イエス様を信じないで人生を送るなら、私達は下から生まれた者だからそのまま地上に残って、墓の中に入ったままになるけれども、
 「私を信じるなら、あなた方は神様の国に行くことが出来る。」ということを、イエス様は仰いました。
 皆さん、なんという御言葉でしょうか。この様なことを仰った方が、この世界に未だかっているでしょうか?イエス様以外に、御語りになった方はありません。
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ヨハネによる福音書18章36節~38節、イエスは答えられた、
 「私の国はこの世のものではない。もし私の国がこの世のものであれば、私に従っている者たちは、私をユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、私の国はこの世のものではない。」
そこでピラトはイエスに言った。 「それでは、あなたは王なのだな。」
イエスは答えられた、
「あなたの言うとおり、私は王である。私は真理についてあかしをするために生まれ、また、そのためにこの世にきたのである。誰でも真理につく者は、私の声に耳を傾ける。」
ピラトはイエスに言った、「真理とは何か。」
こう言って、彼はまたユダヤ人の所に出て行き、彼らに言った、「私には、この人に何の罪も見いだせない。」

 イエス様はここでは、
「私の国はこの世のものではない。」
と、仰せられていますので、イエス様が来られた国は、この世の国ではありません。その国は、上にある国だと言っていらっしゃいます。
そしてイエス様はその国の王であると仰いました。王自ら、その国からこの世の国に来て下さったと言うのです。
そしてイエス様は、真理について教えるために私は来たのだと仰いました。
総督ピラトは言いました、「真理とは何か。」 ヨハネによる福音書14章6節~9節、イエス様が弟子達に語られた御言葉です。
 
イエス様はピリポという弟子に、「私を見た者は父を見たのである。」と、おっしゃいました。父とは、神様の事です。
イエス様を見た者は神様を見たのと同じであるとおっしゃいました。イエス様は神様であります。そしてこの方は、はっきりと
「私が道であり、真理であり、命である。」
と、仰せられましたから、イエス様が真理です。
ピラトは言いました。「真理とは何か。」イエス様御自身です。



2004年5月1日土曜日

夫婦は一つ



           2004年5月主日礼拝より


                  
                  メッセンジャー:久松政一牧師
                  (クライストチャーチ主任長老)

創世記 2章21節 


 「そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。」
 この所を見ると、神様は男のあばら骨一本を取って、そして23節には、それによって女を造られたと書いてあります。ですから、男のあばら骨から女が出来たということは、男と女は切っても切り離せないものであるということを私達はこの聖書から知ることが出来ます。ですから、元は同じものだったということです。同じものなのです。

 創世記2章24節
「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。」

 ですから、まず結婚とは、
第一に“両親から離れる事”です。
第二に結婚とは、“心が結び合う事”です。
第三に結婚とは、“肉体が一つになる事”です。

ということは、これは、一つになるということですね。両親から独立しなさい。両親から離れたら、男と女は心を一つにし、体を一つにして家庭をつくって行く、これはものすごく大事なことです。
ですから、男と女は全然違う様なのですけれども、神様は、元は同じだということを言ってらっしゃるのです。切り離せないわけです。これが聖書の言う夫婦のとらえ方なのです。
 そしてその次を見てみましょう。 

今度は創世記3章6節
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」

 だから、神様抜きでこの女は、おいしそうな木の実を見て、取って食べたのです。そしてそれを夫にも与えたのです。
すなわち夫と妻は一つであるということです。もしこの女が自分だけ食べて、夫が食べなかったとしても、この罪は同罪なのです。妻をさげすんだり、夫をバカにしたりするということは、夫婦は一つということをあまりわかっていない、違うものの様に受け止めている人のする事です。

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2004年4月1日木曜日

私達は何者ですか?


2004年4月 主日礼拝より

メッセンジャー:デイビー・カップ師

(アメリカ・ロングビーチ:シティ・アット・ザ・クロス主任牧師) 





マタイによる福音書8章23~27節
 それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。 ところが、イエスは眠っておられた。そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起こし、「主よ、お助けください、 わたしたちは死にそうです」と言った。するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるか、信仰の薄い者たちよ」。 それから起きあがった、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。 風も海も従わせるとは」。


 イエス様というお方は、確かに神が人となられたお方ですけれども、でも人なるお方です。そして人がどんな素晴らしい事を する事が出来るか、それを見て彼らは驚いた。

気をつけていただきたいことは、イエス様はこの弟子たちが、同じ事をする事を 期待しておられたのです。イエス様は、舟で眠っておられます。この嵐の真っただ中で誰かが立ち上がって、同じ様に、 「この波よ静まれ!」って言うのを、期待しておられたのです。

だからこそイエス様は、「どうしてあなた方は臆病になるのか?」と、 おっしゃいました。彼らがそれをしなかったので、イエス様は怒られました。

皆さんが罪の力から救い出されたのは、 皆さん自身もイエス様のようになる事が出来るためです。イエス様がなさった事は、皆さんも出来るのです。

「私はただの罪人です。」いや、そうではありません。彼らは何と言いましたか?
「このお方は一体どんな人間なのか?」 このお方がどういうお方であるかお話します。


2004年3月1日月曜日

天が地よりも高い様に




2004年3月 主日礼拝より
メッセンジャー:久松政一牧師
(クライストチャーチ主任長老)







イザヤ書55章8~9節
「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、 あなたがたの思いよりも高い。」

こう書かれています。
 神様の思いと、人の思いは違うということを私達は覚えなければなりません。
 ところが私達は神様と私達の思いが、「同じだ!理解出来る。」そういうとらえ方の人達がよくいます。
そこで、私は今日聖書からその事についてお話したいと思います。

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 創世記2章9節まさにそれはエデンの園、 天国を象徴している所ですが、その天国の真ん中に神は命の木と、善悪を知る木と2つ生えさせられた とあります。
この命の木について、神様は「自由に取って食べていいですよ。」とおっしゃっています。 神様は、

 「この命の木の実を人間は食べなさい。 しかしもう1つの善悪を知る木の実からは取って食べてはならない」
とおっしゃいました。これは、神様の思いです。
そして私はこの2つの木を考えてみました。 この命の木の実というのを、聖書はどんなふうに言っているのかな?どんな木だったのかな? まあ自然的に見れば、見栄えのする、そういう木ではなかったように思います。

 聖書を見ると、この命の木というのは、これはすなわち、イエス様のことです。 命の木の実から取って食べていたなら、人間は死ななかったわけです。命の木ですから。 イエス様はこうおっしゃっています。

 「わたしはよみがえりであり、命である。 わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」
そうおっしゃっています。ですから、イエス様は命の木だったのです。
 ですから命の木から私達が食べてさえいれば幸せだった。
その命の木は実際には、 どんなものだったかというと、イザヤ書の53章を見ると非常に明確に書かれているところがあります。

イザヤ書53章1~2節
「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれに現れたか。彼は主の前に若木のように、 かわいた土から出る根のように育った。 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、 我々の慕うべき美しさもない。」


 これは、イエス・キリストについて預言されている言葉です。
この所で、本当にイエス様が どんなに人から蔑まれたか、 人間の目で見たら2000年前の当時、何にも、神様の様に見えなかったのです。 むしろ、人間としてもあまり良い者でない者のように見えたのです。
 ですからそれを例えて、乾いた根のように育った、この方が命の木の実であったのに、その当時、 せっかく救い主であるイエス・キリストが来て下さったのに、 その当時の人達はイエス様を拒絶した。
神様の考えと、人間の考えと、全然違ったわけですね。
その様に命の木はあまり美しそうには見えなかったのではないかと、私はそう思います。
 聖書の中でイエス様は、

 「狭い門から入りなさい、命に至る門は狭く、それを見いだす者は少ない」

と言ってらっしゃる所があります。
命の門、それは、狭いのです。という事は見出す事がむずかしいのです。 
だから多くの人達が本当の幸せは何かとさまよいながら、得る事が出来ないで皆死んでいっているのです。
反対に滅びに至る道、その門は大きいのです。誰でも入って行ける訳です。

 その様に今の世の中は何でもいい、自分の考えで皆広い門から入っているのです。
そして、 皆が一緒にいるから、皆誰だって、こんな事もやっているし、あんなこともやっているし、 人間なんかこんなものだと思って、皆そこから入っていっているのです。
 けれどもだんだん狭くなるのです。そして最後は滅びに至る道があります。と、イエス様はおっしゃいました。

ですから、命に至る道は、これは狭い、言い変えればぱっとしない、「ええ!こんなの? こういうものが本当に幸せを与えてくれるの?」というような、そういう道です。
ですから、この命の木をアダムが最初に見た時あまり見栄えがしなかったのではないかなって、 私は想像するのです。
それに比べて、善悪を知る木の実については、非常に詳しく書いてあります。

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2004年2月1日日曜日

大いなる神






         2004年2月 主日礼拝より

      メッセンジャー:久松政一牧師
      (クライストチャーチ主任長老)







詩篇34編(ダビデがアビメレクの前で狂った様を装い、 追われて出ていったときの歌)3節には、  「わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう」
こう書かれています。
 この “あがめる”、“ほめたたえる”という言葉には、英語では”マグニファイ”という言葉が使われています。
この言葉のもう一つの意味を見てみますと、”望遠鏡などで物を拡大する”という意味があるのです。
でね、この”マグニファイ”という英語は、拡大する、大きく力を増すとか、効果を増す、 とかそういう意味で使われているのです。
そしてもう一つ、聖書のへブル語で見ると、原語で見ましたら、 また素晴らしい意味が書かれてあるのです。
それは、 「大いなる、大きくする、成長する、登らせる」 こういう意味で聖書の中の“あがめる”という言葉が使われているのです。

2004年1月15日木曜日

ネオスとカイノス



    2004年1月 主日礼拝より
         メッセンジャー:久松政一牧師(クライストチャーチ主任長老)



マタイによる福音書9章17節
「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋にいれはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れでるし、 皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう。」

ここで書かれています、新しいぶどう酒と書いてあるこの新しいということについて今日はお話をしたいと思います。

 新年ですね、新しい年が始まりました。
旧約聖書を見てみても正月という言葉が出て来ます。新しい年の新しい第1日目、 これは本当に大切なんですね。

ここで聖書の中で出て来た新しいぶどう酒と書かれている,この新しいという言葉の意味は、 実は、2種類あるのですね。
ここで使われている新しいと言う意味はですね、ギリシャ語を見ますと、ネオス(NEOS) という言葉がつかわれているのですね。
今は新しくても後には古くなると言う、変化すると言う意味での新しいと言う意味なのですね。

 又、出エジプト記には、新しい王が出て来たという言葉が書かれている所があります。
ですから今までの王とはちがう新しい王様が出たと言う意味ですよね。
しかし、この王様も何年かたてば新しい王様ではありません。
そのように私達はこのネオスという言葉が つかわれている新しいと言う言葉は私達にとって不必要かというと、そうではありません。これも大切な御言葉の一つなのですね。
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伝道の書 1章9節~10節 
ソロモンという王様が書いた書物です。「先にあったことは、また後にもある。先になされた事は、また後にもなされる。 日の下には新しいものはない。見よ、これは新しいものだと言われるものがあるか。それはわれわれの前にあった世々に すでにあったものである。」

 こう書かれてあります。ここに書かれていますように、日の下で、すなわち私達が生きているこの地球上で、 新しいというようなものは、本当は一つもないのだ。
それは以前にあったものであり、それの繰り返しだ。ということを、 ソロモンは言っています。
まさにその通りです。聖書が言うところの結論は、このネオスという言葉が使われている意味は、 私達は新しくてもいつかは消えて行く者、その様な意味で用いられています。

しかし、この年、私達のこの教会で、 本当に求めなければならないのは、やはり新しい人々です。新しい人達が大勢この教会に導かれて来られて、 イエス様を信じなさって救われる事は、この教会にとっては新しい事です。

皆さんネオスです。毎年同じ人数の教会であっては、 イエス様に申し訳ありません。
今年新しい人々が救われて来る事を信じる事は本当に大切な事です。
又、昨年までは、 命の存在そのものもなかったその人々が今年は生まれる、新しい命が生まれる。嬉しい事ですね。
いろんな、すばらしい、 新しい事がこの教会に起こる事はすばらしい事です。
夫婦間の問題が解決される事、又、永年わずらっていた病が癒される事、 これは、すばらしい事です。新しい事です。
神様が新しい事を私達にして下さる事を信じます。
しかし、こういう新しさだけで、私達が教会をもし進めて行くとするならば、それは非常に危険な教会になります。
 なぜかと申しますと、形に現れて来るものがすばらしくても、それは又、いつしか変化するものです。
もちろんこの新しさを求める事は良いことです。しかし、この新しさだけで私達は満足してしまってはいけないのです。