2014年2月16日日曜日

「神様はすぐそばにおられます」


2014年2月16日の礼拝より。
メッセンジャー:デイビー・カップ師
          (ロングビーチ:シティ アット ザ クロス)


 カップ先生が日本に来られる飛行機の所で、神様がカップ先生に語られた一つの事は、「私は極めて近い所にいる。」皆さんが霊的な視野をもしお持ちでないなら、それはちょっとおかしいように聞こえるかも知れない。イエス様が、「私はとても近い所にいる。」と、おっしゃいました。あなたにとても近い。私たちとイエス様が一緒にいることは、私たちは知っているはずですよね。でもイエス様は、「私はあなたと共にいる。」とはおっしゃいませんでした。イエス様は、「私はとても近い。」と、おっしゃいます。今朝はそのことについて、立て上げていきたい。イエス様が私たちに近い所におられる、ということについて教えたい。私たちは宗教家ではありません。私たちは倫理的、道徳的な教えに従っている、一団の人々ではありません。もちろん私たちには、倫理的な教えもあります。もちろん霊的もありますね。キリスト教というのは、哲学的な宗教ではありません。もちろん哲学はあります。でも私たちがやっていることは、それが焦点ではないのです。キリスト教というのは、貧しい人たち、しえたげられた人たちのために、良いことをするということが主題ではありません。もちろん私たちはそれをしますね。そして地上における正義が行われているかについても、私たちは関心がありますね。でもそれらのことが、私たちがどんな者であるかということではありません。それら一切の事は、他の誰でも行いますね。それぞれ皆、良い教えを持っていますね。彼らは皆、良い道徳観を持っていますね。彼らは皆、貧しい貧困の方について考えていますね。彼らにも哲学はあります。私たちも、それらの者の一人ですか?良い道徳観、倫理観を、仏教の人たちも持っていますね。私たちは、仏教の一端として、やっているのですか?







ちょっと前に東京で、ダライラマについての宣 伝、広告のようなものを見ました。ダライラマは、その一つの宗教の、トップのリーダーです。彼は聖なる清い御方と呼ばれています。先月12月の、東京での 彼の集会の中で、「集会に来てごらんなさい、望みを得るために。平和を得るために。危機で満ちた世の中で、生きるための解決を見出すために。」それらのも のと私たちは、何のちがいがありますか?キリスト教とは、一体何を中心としているのですか?私たちはなぜここにいるのか?なぜ神社にいないのか?なぜ私た ちは仏教のお寺に今いないのか?なぜあなたはここにいるのですか?ここに集約されます。私たちは、イエスキリストという名前の男に従う者たちです。イエス 様の教えに従っているのではありません。彼に従う者なのです。私たちは彼の教えにも従います。けれども彼の教えが中心ではなく、イエスが今語っておられる ことに従うのです。皆さんは、「2千年前に、もうイエス様は死んでいるんじゃない?」と、言うかも知れない。あなたは、「私はイエス様の教えに従っている んだよ。」と、言いたいかも知れない。いいえ、私はイエスに従います。私はイエスに今朝語りました。私たちは今日、歌をイエスに歌いました。なぜならイエ スだけが、死んで蘇られた、唯一の御方だからです。彼の死と復活が、イエスが神であることの証となりました。彼は肉を持った神でありました。イエス様がさ れた、教えに私たちは従うのではなく、イエス様に私たちは従います。イエスは私たちに語ります。私たちを助けます。イエスの霊が、私の内に住んでおられま す。私たちは宗教をやっているのではない。私たちは神御自身が、まさに住んでいる、私たちが宮なのです。私たちは神社仏閣に行きません。イエスはここに真 に今おられます。私は信仰によって、イエスがここにおられると信じます。イエス様はあなたを見て、あなたの心を見て、あなたの思考を見て、彼は生きておら れます。そのことが、世にある全ての宗教から、私たちを分け隔てるものです。なぜならこれは教えについてではなく、良いことを行う事ではないからです。良 い哲学ではなく、イエス御自身についてです。私はきわめて近い。それは全てのことを変えますね。彼はあそこにいるのではない。そこにいるのではない。私た ちの神、天地万物の創造主が、まさにこの部屋の真中におられます。問題なのは、私たちのこの人間の目では、彼を見ることができないからです。その日には、 私たちは見るでしょう。私たちが新しい体を得る時。でもイエス様はここにおられます、今も。私がもし新しい肉体を持っているなら、彼を見ることができま す。あなたがあなたの目で見えないからといって、イエス様はここにいないということではありません。ですから私たちは集まるのです。私たちは、宗教的な儀 式をやるために集まりません。私たちはイエスを礼拝するために集まります。イエス様から聞くために集まります。イエスからの強さを受け取るために集まりま す。イエス様から個人的にです。イエス様はきわめて近い所におられます。

 マタイによる福音書18章20節  私たちがイエス様の名前によって集まる時、少なくとも二人いる時、イエス様は言います、私はそこにいる。彼らが集まっている所にです。見えるかどうかは関 係ない。あなたが私の名によって集まっているなら、私はそこにいるとおっしゃいます。ここにおられます。皆さんそれを真のこととして、見なければならない と理解されますか。酸素は見えませんね、でも酸素はありますね。あなたがこの自然の目で見えないからといって、それが現実ではないということではありませ ん。風が存在することを、皆さん信じていますか?イエス様はここにおられます。あなたの見方というものを、それは変えるでしょう。あなたの聞き方を、それ は変えるでしょう。あなたの歌い方も、それは変えるでしょう。あなたの手の上げ方も、それは変えるでしょう。感覚、五感に捕われず、イエス様がここにおら れるとおっしゃったゆえに、あなたはそれを見なければいけません。イエス様は私たちに、とても近い所におられます。

世の全ての宗教から、私たちを異なるものとする のは、それです。他の全ての人たちは、死人に従っています。被造物は何であれ、同じ時間に一つの場所にしか居られません。なぜならそれは、時の中に存在し ているからです。神は被造物ではない。彼は永遠の存在です。彼が時を創造し、宇宙空間を創造された。そしてそれらを全て満たしておられる御方。ですから彼 はここにおられます。南アフリカにおられます。東京におられます。ロングビーチにおられます。ニュウデリーにおられます。カリフォルニアにおられます。 フィリピンにおられます。彼は神だからです。それがイエス様です。一体どの人が、他の宗教が欲しいと言うのですか?なぜあなたが神の宮であるのに、わざわ ざ宮に行く必要があるのですか?なぜ返事もしないお釈迦様に祈る必要があるのですか?私たちの神は私たちの言うことを聞かれます。それであるなら、なぜイ エス様に従うことをしたくないという人がいるはずがありましょうか。なぜならイエス様は、生きておられるからです。彼には御心があります。彼は主なる方。 そして彼と関係を持つために、あなたはひれ伏さなければならない。そして人々は、生きておられる神に、ひれ伏したくないのです。奈良の大仏の所へ行って、 「おい大仏、醜いなお前は。お前のこと好きじゃないわ。」それでも大仏は、あなたに何もしません。「お前に俺は全然従わんぞ!お前の教えなんか全然知らん ぞ。」大仏は何もしません。人々はそのようなたぐいの神に、むしろ従いたい。なぜならそのようなたぐいの神は、あなたに何もしないから。みかんを2~3個 置いて、それで充分です。大仏はそれを食べもしませんけれど。イエス様に、こうあなたが言うなら、「不細工だなあ、お前のこと嫌いだ。」イエス様は何をな さいますか?究極的には、「私から離れて、永久の黄泉に下りなさい。」と、言うかも知れない。私たちを彼は裁きます。私たちを矯正します。ですから人々 は、イエス様に仕えたくない。人々は、自分のすべきことを教え告げられたくない。それに反して真理は、大仏に私がこう言うなら、「愛しているよ。あなたは 本当に大いなる偉大な方。賛美を捧げます。」大仏は何もしません。あなたが家に帰っても、何も変わっていない。あなたが涙を流して愛を注いでも、何も変わ らない。でも主イエスをあなたが見上げるなら、「あなたを愛します。あなたを礼拝します。私の人生を、あなたに捧げます。」変化が起こります。あなたに御 使いを送り、あなたを癒し、あなたを愛し返してくれます。なぜならイエスは死んでいません。生きておられますから。そして今ここに、生きておられます。イ エス様が私たちの内におられます。それが素晴らしいことです。あなたが家に帰る時、あなたと共に彼は行っています。なぜなら、「あなたを離れることを私はしない。」と、イエス様はおっしゃったからです。彼を得るために、全てのものをなげ売っても、イエス様を得る価値があります。彼は私たちの神です。私たちの主です。ここに彼はおられます。
ヨ ハネという名前の男がいます。イエス様を見ました。天に上げられた、栄光に満ちた方を見ました。これは驚きですけども、ヨハネが地上でまだ生きておられた 時に、ヨハネはイエス様に、最も近い存在でした。イエス様には、他の全部の弟子たちがいましたね。おそらくヨハネは最も若かった。おそらく16、17、 18歳ぐらいでした。イエス様は当時彼を近くに寄せましたね。夕食を、皆共に食べる時に、いつもイエス様の真横に座りました。ヨハネはイエス様に、とても 近かった。ヨハネは自分自身を指して、主が愛された者と書かれた。イエス様が死なれ、甦られ、昇天され、30年、40年が経ちました。ヨハネは全く成長し た使徒となりました。彼は福音を語る説教者です。彼はイエスキリストの使徒でした。他の人たちは、もう皆死んでいました。彼らの信仰のゆえに、殺されたの です。ペテロは死にました。ヤコブは彼の首を断ち切られました。トマスはインドの土を盛って、死ぬまで埋められました。パウロはネロ皇帝の前に、さらけ出 されました。その時、ヨハネだけが生きていました。彼は説教したことのゆえに、捕まえられました。彼は岩で満ちた島に統監されました。パトモス島という島 です。イエスに従ったことのゆえの罰として、一日中その岩を、粉砕しなければなりませんでした。でもそこで、彼と一緒にいたのはどなたですか?イエス様で す。ヨハネは、主が彼とずっと共におられたので、主との関係を失うことはありませんでした。そしてある日、イエス様は彼に御現れになりました。その出来事 は、あなたの聖書に書かれています。イエス様が、「私はあなたに極めて近い所にいる。」と、おっしゃる時、それは一体どのようなお姿ですか?イエス様が私 たちの内におられる。

ヨハネ黙示録1章9節「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」10節「ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。」
主の日に、主の霊の中に私はいたと書かれていま す。見て下さい。毎日彼は岩を粉砕しています。でも日曜日、主の日、他の皆が共に集まっていることを、彼は意識しています。アジアで、エペソで、それは主 の日だと、彼は意識しているのです。霊の領域で、彼は彼らと共に集まったのです。鎚を置いて、礼拝しました。主の日に、私は霊の中にいたと言っています。 主の日は日曜です。なぜでしょうか?その日にイエス様は死から甦られたからです。イエス様が死から甦られたその日に、日曜日が主の日と呼ばれるようになり ました。その日は彼に属する日となりました。その日を彼に捧げます。一週間の始まりの日です。日曜は、7日目ではありません。それは土曜日です。日曜は、 第1日です。私たちの生活の、一番最初にすることは何ですか?神様に最初のものを捧げます。私たちの最初の捧げもの。私たちの最初の朝、そしてその一週間 の最初の日を、主に捧げます。「わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。」で すからヨハネは礼拝をしています。突然、彼の後ろに何か聞きました。「ヨハネ!」と、ラッパのような大きな声。彼は霊の領域に、信仰の領域に、今存在して いるのです。彼の五感に陥っていません。地上の全土に渡る聖徒達と共に、神を今礼拝しているのです。パトモス島にいるのだけれども、鎖で足を捕らわれてい るのだけれども、霊の領域の中で、主の日に彼は存在しています。そして声を聞きます、彼の後ろから。見て下さい。12節「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。」彼はその声を見るために振り向いた。どうやって声を見ることができますか?人は見えますね。声は見えない。声を見ようと、振り返った。なぜでしょうか?なぜならその声を、彼は知っていたからです。主の声だから。私は3年半、彼と一緒に過ごした。覚えておられますか?「わたしの羊は、わたしの声を知っている。」そ れを書いたのは誰か知っていますか?ヨハネです。ヨハネの福音書です。ですから礼拝していますヨハネは。彼の意思で、彼はイエス様の声を聞きます。その声 を見るために振り返ります。そしてそこに彼はおられました。どのようなお姿でしたか?彼が振り返って、最初に見たのは、7つの燭台でした。見て下さい。古い契約では、神の臨在の中では、一つの燭台だけでした。7つ のロウソクが付いている、一つの燭台だけでした。皆さんがユダヤ教の文化を知っているならば、マノアと呼ばれるものです。古い契約では、神はどこにおられ ますか?一つの燭台と共におられた。でも今は、ヨハネが振り返ると、7つのそれぞれの燭台があった。一つの教会だけではなかった。多くの教会がある。7は完全を表す数字です。ですからヨハネが振り返って最初に見たものは、イエスキリストの教会、複数でした。光の出る場所。

「あなたは世の光です。」ヨハネが振り返ると、7つの金の燭台を見ました。金が語るのは、純潔さ、清さ。私たちは教会として、清い、純潔な者です。ヨハネはこの7つ の燭台を見て、突然、それらの燭台の間に、人の子のようなものがいた。一つ一つの教会、世に光を与えます。それらの燭台の間中に、だれかが歩いていた。そ れは人の子のようなものであった。人の子というのは、イエス様が地上におられた時に、彼に与えられたタイトルです。ヨハネは人の子だとは言いませんでし た。人の子のようなもの、と書かれていますね。あのイエス様かな?でも何か全然ちがう。そしてイエス様は、燭台の中を歩いておられます。教会の中を歩きま わっておられます。彼はとても近い。見て下さい。何と書かれていますか?足まで垂れた上着を着ていた。それは皇族が着る上着です。王の着物です。それは祭 司の着物です。ですからイエス様は教会の中を王として、祭司として歩いておられるのです。ですから彼は今日ここにいるのだ。あなたの王としています。あな たの祭司としています。私たちの内を歩いておられます。胸に金の帯を締めている。彼の胸を義が締めている。なぜなら義の王だからです。神の前に正しくあり たいなら、イエス様の所に来なければなりません。私たちの義の資源の源は、イエス様です。私の働きではない。あなたがどれだけいい人かではない。そうでは なく、イエス様とあなたです。義の王ですね。ですからイエス様が歩いておられる時に、イエス様はヨハネに対し、背を向けているような感じです。それから振 り向き、イエス様が振り向いたら、その頭と神の毛とは、雪のように白い、羊毛に似て、真っ白であった。それはとても重要な特性です。

 ダニエル書7章9節 ダニエルは幻を見ています。「わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。」
日 の老いたる者とは、どういう描写をされていますか?何と書かれていますか?その衣は雪のように白く、頭の毛は混じり物のない、羊の毛のようであった。ヨハ ネが見た人物と同じ人ですね。教会の中を歩いておられるイエス様。王であられ、私たちの祭司であられる、義に満ちておられる。そして彼はまた、日を老いた る者。彼は今もおられ、永久に、これからもおられる御方。神が肉を持っておられた、それはイエス様です。ヨハネがイエス様の髪を、羊毛の白に見た時、それ はダニエル書の7章と連結されました。彼は日の老いたる者。イエス様はあなたの近くにいる、それを覚えていますか?どんなイエス様があなたの近くにいますか?黙示録1章 「目は燃える炎のようであった。驚くべき描写ですね。彼はあなたを見る時、あなたの霊の深みを見られます。あなたの生活の構造の、全ての側面を見られます。彼は全てを見すかされます。全部燃やされます。それが私たちのイエス様です。主の目は地上全地にはりめぐらされている。箴言 主の目はどこにでもある邪悪なもの、良いもの、どちらも見ておられる。イエス様は盲目で来られません。彼の目は燃える炎のようです。全てを焼き尽くし、その後残されたものを全部見ます。ヨハネは彼を見ました。

1章15節を見ましょう。「その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、」ヨ ハネは燭台の中におられるイエス様を見ます。金の義の胸飾り、頭には羊のような白い髪。そして彼の目は燃える炎のよう。そしてヨハネは彼の足元を見ます。 彼の膝の辺あたりまでしんちゅうでした。そのしんちゅうは、火の中にずうっと精錬されて、何時間もかけられて、光で輝いています。火でもう火照っていま す。それが彼の足です。なぜでしょうか?なぜなら彼が私たちの中を歩かれる時、私たちを裁かれるからです。しんちゅうは、神の裁きの象徴です。いけにえの 供え物が捧げられた場所、そこにはしんちゅうが使われていました。

出エジプト記36章38章を見ておいて下さい。ですからイエス様はこう言われます。教会の中を歩いておられます。炎の ような目で、全てを見透かしておられる。彼は裁きを持って歩いておられる。「あなたはよくやっている、全部私は見ているよ。でも一つの事をあなたに変えて 欲しいことがある。」イエス様が私たちの中に来られる時、私たちを裁かれます。ですからヨハネの黙示録の2章3章は それについてですね。彼の教会の中を歩きまわられて、「あなたの行為、行いを、1週間あなたがやって来たことを知っているよ。」と、おっしゃいます。「私 の目は全部それを見ているよ。よくやったね。」もしくは、「変わる必要があるよ、あなたは。」それが私たちの神です。生きておられます。全てを見ておられ ます。そして私たちを裁かれ、彼の声は、彼が語られた時、それは多くの水音のようであった。

詩篇の29編で、「神の御声は大水のとどろきのようであった。」彼の右の手には、7つ の星があった。彼の右の手にです。右の手が指し示しているのは、権威、力、強さを指しています。イエス様は燭台の中を歩いておられ、彼の足は輝いて、彼の 目は炎のように燃えています。日の年老いた者の髪の毛です。彼は義の王です。彼は私たちの祭司で、彼の手には7つの星があります。それがイエス様です。そ して20で、 この7つの星は、教会の7つのメッセンジャーです。教会の牧師たちは、イエス様の右の手の中におられます。イエス様は私たちの支配者です。私たちは彼に答 えます。彼のコントロール、権威の下に私はいます。私は彼の右の手の中にいます。なぜなら御言葉は、7つの燭台は、7つの教会を指しています。口からは、 するどい両刃の剣が突き出ていた。それは神の言葉です。両刃の剣よりもするどい。私たちの言い訳を全部無効にします。私たちの心の深い所まで突き刺さりま す。それはイエス様です。顔は強く照り輝く太陽のようであった。彼の顔、彼の臨在、彼はあなたを見ておられます。太陽は命を授けます。太陽は強さを与えま す。物事に命を与えます。私たちが生きることは何がさせますか?彼の顔です。イエス様の御顔は、私たちにとっての太陽です。私たちの上に輝きます。彼の御 臨在です。ですからダビデは、「あなたの御顔を、私たちの上に照らして下さい。」と、言いました。それはイエス様です。私たちの近い所におられる方です。 イエス様をヨハネが見た時、17節「わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。」こ のイエス様は、ヨハネが夕食を食べる時、横にいて下さったイエス様ではありません。談笑し、笑い会ったイエス様ではありません。これは王たちの王、主たち の主だ。そして彼の教会の真中におられる。ヨハネは何をしましたか?ヨハネはひれ伏して礼拝しました。そしてイエス様は彼の右手を取って、右手には何があ りますか?牧師たち。そしてヨハネの上にそれを置きました。恐れるなと。立ちなさい。見て下さい。イエス様が立ち上がりなさいと言う時、私たちは立ち上が ります。ここにイエス様がおっしゃっています。「ヨハネよ立ちなさい。起き上がりなさい。私だ。恐れるな。私の臨在の所に来なさい。私は始めであり終わり だ。私は生きている者だ。私は死んだことがある、私は今生きている。世々限りなく生きている者である。私には死と、地獄と黄泉の鍵、私はそれを持ってい る。私はそこに行ったのだ。あなたのためにそれを克服した。地獄と黄泉の鍵とを私は持っている。いつの日か、私はそのドアの鍵を閉めて、鍵をもう捨てる。 ヨハネよ、いつの日か、私のようにあなたも永久に生きるだろう。私イエスは、鍵を持っている。死と、黄泉の鍵を。」そして先週末、金曜日に私たちに、「私はあなたのきわめて近い所にいる。」と、 言われたイエス様です。ですから私はクリスチャンです。イエス様のいい教えのゆえではありません。貧困にあえいでいる人たちに、良い働きをするためのもの ではありません。そうではなく、彼は死んで、今生きておられるからです。今どこにおられますか?教会の中を歩いておられます。裁きを持って。炎のような目 を持って。義の王の衣を持って。祭司、日の老いた者。大水のような声を持って。彼の口から出る両刃の剣を持って。私のできる全ては、死人のように、足元に ひれ伏す事だけです。そして待ちます。そして「デイビー起きよ!」と、私に言ってくれる時まで、ひれ伏すだけです。「恐れるな。私は始めであり終わりであ る。私は生きている者だ。私は死ぬ。けれども世々限りなく生きている。そして私は、死と地獄の鍵を持っている。」ですから私たちは礼拝します。今聞いたイ エス様の描写は、美しくないですか?それが私たちのイエス様です。その方が、私たちを愛しておられる御方です。その方が、私たちの近くにおられる御方で す。その方が、私たちを裁かれる御方です。私たちを強め、私たちを慰めます。それがイエス様という御方です。その方にあなたの人生を、差し上げますね。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿